突破する文章力


「このクライアントは文章にうるさい」「社内のコピーライターでは対応が難しい」。そういった案件が私達には多く来るように思います。ボディコピー、情報誌、取材原稿、あらゆる文章をブランド価値向上の武器にするのも我々の存在理由です。例えば企業の物語では、成功より失敗を、勝者より敗者に焦点を当てると、企業の良さが伝わることは多いもの。出版社や新聞社の優れた編集者さんに鍛えられた文章を、御社の制作物に活かしてみませんか?

下記は某企業用に執筆したオリジナル原稿です。

文中の個人名等は個人情報保護のため仮名にしている箇所もあります。ぜひご一読ください。

          F工場の軌跡

沢山な母だった。44年がむしゃらに働いた。誰からも愛された。しかし歳をとり、別れの時が近づいていた。2014年に解体が決まったマツダのマザー工場「F工場」のことである◆1960年発売のマツダ初の四輪乗用車「R360クーペ」を皮切りに、2004年までに産み出した車は一千万台。日本初のコンピュータによる生産管理や世界初の電着塗装など先進技術で後続工場の範となった特別な工場であった◆だからこそ、F工場出身で、奇しくも解体工事を任されたプラント技術部長の岩本は、解体ではなく勇退としての花道を用意したかったのだ。それは工場を傷つけず、怪我人を出さず、近隣にも迷惑をかけない工事。そこで工事関係者全員にその想いを伝え、「F工場は最後まで見事だったと思われる送り方をしたいんです」と頭を下げたのである◆岩本の想いに、工事関係者は応えてみせる。生産設備はあえて組立順序を逆に辿って慎重に分解した。常に騒音装置を確認し、廃材を置く音にも気を配った。高所作業の際はまず地上で予行演習した。「まるでおくりびとの気持ちで臨んだ」と、ある作業員は述懐している。こうして建設時の倍の2年4カ月を費やし丁寧に工事を進めたのだった◆徐々に終わりが近づくにつれ、関係者が続々と訪れた。F工場出身の社長鳥飼正道もその一人。別れの挨拶がしたいと駆け付けた彼は、若き日に汗を流した場所を黙って見つめるとぽつりと呟いた。「ありがとう」◆そして2017年7月、そぼ降る雨の中、遂に最後の柱はゆっくりと倒れていったのだ。工事の陣頭指揮をとった岩本の、涙に滲む視線の先で、F工場はその生涯を閉じたのである◆確かにF工場の姿はもうないが、その精神は永遠のはずだ。「頑張りなさい。いいモノを作りなさい。諦めなければ大丈夫」。壁にぶつかった時は、あの母の声を聞け。

最後の渡し舟

っ青な大空を猿猴川が映していた朝だった。川沿いの船着き場では、マツダ の連絡船・仁保丸が定刻の出航を待っていた。8時15分。「時間だ」「よし出航」。鈴木と田中、船頭同士のいつもの会話。ただ一つ違うのは、今日が最後の運航日ということだった◆1958年から17年、本社と渕先工場を結ぶ交通手段として、月間1万人の社員を送迎してきたのがこの連絡船だ。しかし仁保橋や東洋大橋の竣工で役目を終える時が来たのである◆いつも通り渕崎へ漕ぎ出しながら、鈴木が思い出していたのはあの日のことだ。「誰か川に落ちたぞ~」。岸からそう叫ぶ声に振り向くと、ボートが転覆し父子がおぼれている姿が見えた。咄嗟に船を向けると、川の中から父が息子を掲げ、必死に鈴木へと手渡してきた。無事二人とも救出したがあの子は幾つになったろうか。命の重みを今も手が覚えている◆一方の田中が苦笑交じりに思い出していたのは60年代の通勤ラッシュだ。「朝礼に間に合わない」と船に飛び乗った勢いで、浅瀬に落ちた社員を何度拾い上げたかしれない。そうそう、船が川中で故障した時は、予備船を泳いで取りに行ったっけ。懐かしさの中の一抹の寂しさ。だが何より二人の心を占めていたのは、自分達にしかできない仕事を全うしたという誇りであった◆本社から渕崎へ、渕崎から本社へいつも通り40往復。そして16時50分、遂に本社発最終便を終えようとする時だった。そこには予想外の光景があった。夕闇迫る渕崎工場から大勢の人が溢れ出して帽子を振っているのだ。朝夕よく見る顔、顔、顔。17年の仕事が報われたと感じた瞬間だった◆一隅を照らす。一つの仕事に徹して世に貢献するという意味だが、歴史からひっそりと消えた彼らもまた一隅を照らした宝であった。その功績に感謝し、ここに記しておく。汗と重油と川風にまみれた男達の物語を。

広島カープとマツダ

の日、広島平和大通りを埋めた30万人の観衆がいたる所で掲げたのは、家族の遺影であった◆1975年10月15日、広島東洋カープ初優勝パレード。「じいちゃんが喜んでるよ~」「ばあちゃんが待ってたぞ~」。涙の笑顔でそう叫ぶ彼らの姿を、パレードの車上から目にした山本浩二や衣笠祥男らはこみ上げるものをグッとこらえて手を振り返した。原爆投下から30年目の奇跡であった。草木も生えぬと言われた広島に球団が誕生したのは、終戦から僅か4年後の1949年。復興を象徴する市民球団として期待されたものの、最下位争いを繰り返し、経営難で観客の樽募金に支えられる程だった。しかし負けても負けても立ち向かう姿に、人々は戦後の混迷から這い上がる自らを重ね、一勝一勝に希望を見出してきたのである◆創設13年を経ても財政難が続くカープを救おうと1962年に球団社長を引き受けた三代社長・松田恒次にも逸話が残っている。開発費の融資を受けるべく、銀行の頭取と会合した時のことだ。「カープを見てやるとは、ゆとりがあるんですね」という頭取の皮肉に「道楽で見ようというのではありません」と気色ばんだのだ。そして続けた。「原爆で親子や兄弟を失い、その悲哀を晴らす場所さえ失った市民にとって球団は唯一の慰みの場。黙って消滅を見過ごす訳にはいかんのです」。当時はロータリーエンジン量産化で予算が必要な時期だったが、それでも地域の希望の灯は消さないという恒次の信念を知り、頭取は即座に頭を下げたと言う◆悲願の初優勝を見ることなく恒次は1970年に没するが、あの優勝も、後に常勝軍団となる未来も、どこかで確信していたのではないか。被爆を経験したある婦人が、初優勝に涙してこう語っている。「生きるとは、諦めたらいかんということ」。その通り、諦めなかった人生にある日咲く、真っ赤な花の美しさよ。

彌之助の先見力

「海抜14.8mの高台に建設すべきだ」。1968年、女川原子力発電所の建設地に際して、そう主張した技術者がいた。かつて東北電力で副社長を務め、財務体質悪化の責任を取って退任していた平井彌之助である。社内委員会では1611年の慶長津波に照らして海抜12mを支持する声が大半を占めていたが、古文書を詳細に研究した彌之助は、「貞観地震(869年)の津波から算出すれば14.8mは必要だ」と譲らなかったのである。原発は海水をポンプで引き上げて冷却するため、海抜が高くなるほどコストがかかる。1963年当時の東北電力は電気料金を上げざるを得ないほどの財務状況だったが、社長の平井寛一郎が採択したのは彌之助の意見だった。二人の平井は東北のはるか未来を見据えていたのである。◆それから43年を経た2011年3月11日、その時が来る。東日本大震災である。東京電力福島第一原発よりも震源地に近く、地盤が1mも沈下した女川原発に高さ13mの大津波が襲ったのだ。だが女川原発は80㎝の余裕を残して耐え凌ぎ、大事故を起こすことなく「冷温停止」を実現するのである。2年後の2013年、被害調査に訪れた国際原子力機関の査察団は報告書にこう記している。「Remarkably Undamaged(驚くほど損傷を受けていない)」。◆半世紀前のあの日、英断を下した寛一郎は女川原発の稼働を見ることなく1978年に没し、安全に妥協を許さなかった彌之助も1986年に世を去った。しかし彼らの判断は、「仮に建設地が2m低ければメルトダウンもありえ、三陸一帯が避難区域になった」という最悪の事態から、彼ら亡き後の女川を守ったのである。「盾」という字には「目」があるが、自然の驚異を、原子力を扱う重責を、何より地域住民の命の重みを見つめた先人らの確かな目が、あの時、盾となったに違いない。その対策は、50年後100年後の盾となり得るか。東日本大震災を乗り越え、2号機の再稼働を目指す今もまた、この目が求められている。


瓦礫の中の桜

原発内に避難民を受け入れることが警備上よくないことは分かっていた。しかし、女川原子力発電所PRセンターに、津波で家を流されたずぶ濡れの住民が押し寄せているのを知った時、渡部所長の心は決まっていた。周囲にいた所員らも「所長、受け入れよう」と目で語っている。津波の第一波から40分後のことである。◆問題は食料だった。原発内にいる避難者含め約1700人に対し、備蓄は4500食。そこでテレビ会議で「食料を送ってほしい」と窮状を訴えると、これを見ていた本店副社長の梅田が応えるのである。「物資の他は誰もついて来なくていい。とにかく物資を積め」と、ヘリコプターに食料、水、毛布一切を積み、単身女川原発へ飛んだのだ。梅田は帰路、出産を控えた妊婦や高齢者らを救急車の待つ霞目駐屯地まで搬送した。◆実はこの時、女川原発の所員達は震災対応に追われていた。ある者は地震で生じた火災の消火に。ある者は29時間不眠不休で「冷温停止」に向けた作業に。しかし震災対応の真只中にあってなお救難活動に尽力したのは、街で会えば声をかけ合い、支えてくれた地域住民を何としても守らなければという使命感があったからである。そしてこの受入れは二次避難先に向かうまでの3ヶ月に及んだ。◆そもそも女川原発は、漁業団体の反対もあり建設まで20年かかった発電所である。その間「この土地の人と一心同体で生きる」と、その覚悟と安全性を伝える中で信頼を得、いつしか絆が育まれていったのだ。だからこそ未曽有の有事に当たり「発電所なら安全だ、何とかしてくれる」と頼ってもらえたことが所員の胸に来たのだった。3ヶ月同じ釜の飯も食べた。涙も流した。その中で所員もまた励まされ、支えられていたのである。地域の皆さん、4月には「花見をしよう」と声があがり、瓦礫の中に力強く咲いた桜を見ましたね。あれは希望だった。スコップを三味線に見立てた余興。涙まじりの笑顔。「ああ、ほんとに桜はきれいだねぇ」。

山が動いた日

山は揺れたのではない。山古志村のある住民は語った。「激しく動いた」と。平成16年10月23日に起きたマグニチュード6.8、震度6強の中越地震である。中山間地の生活道路は山肌から滑り落ち、ライフラインも一気に断たれた。その先の見えない状況にあって、長岡市の山崩れに車ごと巻き込まれた2歳の男児が92時間ぶりに救助されたニュースは、どれほど多くの人に希望を与えただろう。レスキューは命を救おうと必死だった。◆その一方で、約30万戸の停電復旧に挑んでいたのが電力マンである。倒壊・傾斜した4,227の電柱。断線した3,339の電線。損傷を受けた11の変電所…。この事態に、東北電力グループが1日2,200人を動員し「一刻も早い復旧を」と動くのだった。ある者は避難所や病院に応急用電源車を走らせ、ある者は仮鉄塔を一気呵成に立上げ、ある者は断線修復を手分けして行った。25日夕刻からは雨が降り出し、誰もが不眠不休で疲弊していたが、一つの現場が終わるや「さあ、次行くぞ」と奔走する姿には鬼気迫るものがあった。この時、電柱番号を目的地とした専用GPSカーナビ「配電業務ナビゲーション」が役立ち、地理に不案内な応援部隊もスムーズに現場へ辿り着けたのである。◆停電が復旧したのは5日後の午後5時55分。信号も街頭も消えた真っ暗闇の中に一軒、また一軒と灯がともり、「点いた、点いた」の声が上がったのを聞いた時、初めて皆が胸をなでおろした。そしてこの経験が平成18年の「災害復旧支援システム」の構築に繋がり、東日本大震災の復旧作業でも活かされることになる。◆関連会社ユアテックのある社員は、停電が解消した直後、女性が走り寄り、「電気が使えるようになって初めて炊いたご飯で作ったの」と渡されたおにぎりの味を今も忘れない。それは食べるのがもったいないほど旨かった。そして「俺の仕事ってこういうものなんだ」と気づいたと言う。手のひらでホカホカと湯気を立てたおにぎりの、5日ぶりの温かさよ。

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